0103:仏教思想とモトの話

東洋哲学の夕べ(昼間だったけど)

皆さんお久しぶりです。しばらく本の作業に没頭していました。今、第一章が完成しかけてるところです。もうちょっとしたら、この部分だけでも世に出せるようになると思います。そんときはこちらでも告知しますね、お楽しみに♪
(^~^ )

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さて、2019年8月12日、京都のとある一角で行われた、東洋哲学のワークショップに参加してきたんで、今日はその時のことを書こうと思います。

場所はとある建物のカフェコーナー。わしを含む5人の参加者と、主催者の武村ショーゴ先生http://takeshogo.com/)とで、和気あいあいとした雰囲気で行われました。当初は1時間を予定されていたらしいのですが、参加者からの質問で盛り上がり、当初の予定を超えて1時間半のセッションとなりました。とても楽しかったです。

その時に教えて頂いた仏教の話が、わしがこれまでブログに書いてきたことと随分共通していて、お話を拝聴しながら、自分でびっくりしまくりでした(笑)。その内容を、自分のためのメモもかねて、ここに書いておこうと思います。



諸法無我

今回のテーマは

「諸法無我」

についてでした。

無我、というと、わしらは「無我夢中」だとか「無我の境地」だとか、そういう風に日常で使いますよね。要するに、何かに熱中したり、集中したりして、自分を忘れてしまうような、そういう事をイメージすると思います。わしもそうです。

ですが、仏教思想でのこの「無我」という言葉は、ちょっと意味合いが違うんだそうです。すなわち「我」というものは、この世界にあるもので変わらないもの、というのを指し、ゆえに「無我」というのは「固定されて変わらないものではない」という意味になるんだそうです。

そして、テーマの「諸法無我」というのは、

すべてのものは、固定された変わらないものではない


という意味なんだそうです。


この時に先生が紹介された和歌があるのですが

引き寄せて
結べば柴の庵にて
解くればもとの野原なりけり

これが、この「諸法無我」をよく表しているんだそうです。

柴を引き寄せて結んで、一つの建物のようにする。これで雨風をしのげる「庵」となる。しかしながら、結んでいるひもを解くと、ただの柴の野原になる。

つまり、そこに「家がある」のは、もともとの「柴の原」を人間の「行動」がそういう形にしたからで、その行動いかんによって、どんな形にもなりうる、そういうことを言いたいのではないか、とわしは解釈しました。

この「行動」のことを、仏教哲学では「因」(いん)と呼ぶのだそうです。それに対して、既に周りにあるものやこと、要は環境要因の事を「縁」(えん)と呼ぶのだそうです。

この「因」と「縁」、あわせて「因縁」というものが、この世界にあるものを

「一時的に、そう見せている」


にすぎない、これが先の「諸法無我」の表すところ、だというお話でした。
(合ってるかな・・・??(笑))


無我と現代科学

そして、話は現代の素粒子物理学へ。
この「無我」という概念は、パッと見は、現代の物理学と真っ向から対立する考えです。なぜなら、わしらが見たり触れたりしているものは「本当は存在しない」と言っているようなものなんですからね。

しかし、です。例えば、原子の構造ひとつをとってみても、一定の「変わらない形」をしているわけではない、というのです。なぜなら、原子というものは原子核の周りを電子が周回している構造をしているのですが、要するに「核と電子の間には空間がある」し、そもそも「電子が常に動き続けている」ので、一定の形をしているわけではないのですよね。


さらに。その原子核や電子を構成する素粒子についても、観測していないと「存在しているかどうか特定できない状態」になってしまっているという研究もあるんですよね。
(わしも前に書きましたよね(0041))。

こういった研究によって、科学の世界でもこの「諸法無我」が証明されつつある、というお話でした。実際に、素粒子を研究する学者の間で、この東洋哲学・仏教哲学が今、改めて見直されているんだそうです。


地獄世界はCGのようなもの

この「諸法無我」を、突き詰めて考えていくと、こういうことが言えるのだそうです。

「現実は、錯覚である」


現実世界に存在する(はずの)もの、というのは、わしらが「ある」と信じて生きているから、そこに「ある」のだそうです。

この「錯覚」のことを、仏教では「顛倒の妄念」(てんとうのもうねん)と言うんだそうです。

妄念というのは、迷いのことで、我々の煩悩によって引き起こされる、真実とは正反対の考えのことを指すんだそうです。

つまり、わしらは「顛倒の妄念」によって、本当は存在しない現世の物質を「ある」と思い込んで生活しているけれども、やっぱりそれは「本当は存在しない」のであって、真実というのは、わしらの思い込みと正反対の所にある、ということになってるんだそうです。

ほら、この辺のくだり・・・わしが(0062)に書いたことと、似てますよね??
(^~^ )

それに、(0013)や(0027)でわしは「この世界は3DCGのようなものだ」と書きました。わしらが見ているものや触れているものは、モトによって「表示されている」に過ぎないのだと。


あと、モトの性質とも一致する部分があると思います。モトは一定の座標から動かないので、物体が移動「して見える」のは、電光掲示板と同じで、ある意味錯覚なんですよね(0028)。


また、仏教思想の「因」や「縁」は、わしらの「業」(ごう)によるものだそうです。「業」というのは、わしらの「行い」のことで、この「業」というものがひとりひとり違うから、ひとりひとりが見ている・触れている世界というのは、一つとして同じものはない、という考えなんだそうです。

以前わしは、わしらは「自分の認識」の範囲内で生きているのであって、他の人のことは、地獄では分からなくなっている、それがルールなのだ、ということも書きました(0021)。

それにブログの初めの方で、この世界のことを「地獄」だと書きましたよね(0004)。その理由の一つに、この「自分というものをやめられない、自分から出られない」ということ書きました。わしらは「自分」というひとつの牢獄に、とらわれているようなものなんだと。


この考えが、仏教思想と一致していたことは、正直めちゃくちゃ驚きでした。仏教スゲー!! 仏教のこと全然知らないんですけどわし(笑)。
(^~^;)


やっぱり「仕組み」の話

この「世界はひとりひとりが創っている」という発想が、コミュニケーションにも役立つんだそうです。

まず、相手には自分のことは分かってもらえないし、自分だって、相手のことを知っているようで全然知らない。ゆえに、わしらは他者をコントロールすることが、絶対にできない「仕組み」になっている、という理屈なんだそうです。

この「仕組み」という言葉・・・わしがブログの最初から、ずっと使っている言葉です。そう、やっぱり根本に「仕組み」があって、それからわしらの生活があるんですよね。仏教思想はそういった「仕組み」の話なんだということでした。なるほどですよ。


というわけで、結局この世界にあるもので、コントロールが可能な唯一のものは「自分自身」だけだ、ということになるそうです。これを表すたとえ話として
「馬を川に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」
というお話をされていました。水を飲むかどうか決めるのは、あくまで馬。わしらができるのは、川辺に連れていくことまで、そういうことなんだそうです。


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なんというか、わしは不勉強な人間なので、仏教思想にちゃんと触れるのは正直初めてだったんだけど、、、やっぱり先人たちの知恵というのは、何千年も経った今でも全然風化していないし、それどころか、いつの時代でも、わしらの生きる指標になっている。そしてそういうものだからこそ、長く残っているのだなぁと実感しました。

わしの書く文章も、そうやって語り継がれるようなものにしなければ、と思っちゃったりして。いや、目標はでっかい方がいいですよね?(笑)
(^~^ )

主催して下さった武村先生、そしてたくさんお話しを聞かせて下さった他の参加者の皆さまに、深く感謝申し上げます。また参加したい!!
m(_ _)mペコー

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