0039:他者を愛するために、自分を愛するということ

汝の隣人を愛すために、汝自身を愛せよ

自分とは何なのか、という話をしているところですが、何でこんな話が続くかというと、前にも書いた通り「自分を愛せない者は、他者を愛せない」からに、他なりません。

地獄世界では、自分と他者との境界線が、とても明白です。なぜなら、わしらは物理的な肉体(わしの言う「カラダ」の一部です(0013))の中に閉じ込められていて、その感覚だけをたよりに、世界を認識しているからです。だから、自分の中、自分の外、という明白な境界線ができるのです。

モトの世界には、本当は境界線なんてないんですが(0038)、わしらは境界のないモトの世界に生きながら、自分と他者の境界線を感じながら生活できているんですね。よくできたシステムです

さて、そんな世界に、わしらは「自分を大切にするように」プログラムされて生まれてきます。生存本能でしたね。できるだけ長く生きなさい、という、遺伝子からの命令です(0004)。

たいがいの生き物は、このプログラムに忠実に従って生きています。クモは、巣を張って虫を捉えるのに躊躇しませんし、ライオンは目の前のシマウマを殺して食べることをためらいません。


習慣に乗っ取られるアタマ

このプログラムに一番反抗的な生き物は、わしら人間なのかもしれません。なぜなら、アタマが発達しすぎて、プログラムに対する疑問を抱けるように進化してしまったからです。

わしら人間は、プログラムからの命令に反抗することが、しばしばあります。例えば、疲れているのに無理して働いてしまったり、気がすすまないのに友人の誘いに乗ったり、嫌な知人の言うことをついつい聞いてしまったり。生存、という観点からは、必要のない行動を、ついつい取ってしまうこと、心当たりありませんか?

それらはきっと、人間が社会を形成して暮らしていることに起因していて、わしらのアタマが、習慣的に行ってしまうことなんだと思います。

アタマというものはとても高性能で、わしらが普段生活していることをまとめて、グループ化して、自動的に行ってくれるんだそうです。この機能を、習慣とわしらは呼んでいます。

例えば、日頃から料理している人なら、材料を並べて厨房に立てば、ちゃっちゃと料理が出来上がっていきますよね。いちいちレシピを見て手順を確認しなくても、料理ができてしまいます。

車の運転に慣れている方なら、ハンドルを握ってエンジンをかければ、目的地まで運転できます。いちいち「ハンドルを切らねば」「アクセルを踏まねば」とか考えません。

他にも、朝のしたくをしようと立ち上がったら、着替えるところまでは、あまり手順を考えずにできてしまいますよね。こういうのも、習慣の力です。

だから、日頃起こる人間関係にも、この「習慣化」が起こってしまうんです。

今日も上司に叱られるけど、まあいいか。今日も忙しいけど、まあいいか。今日も姑の愚痴を聞かなきゃなんないけど、まあいいか。こんな具合に。

日々の生活で「人生が辛い」と感じていながらも、そこからなかなか抜け出せない。そういう汝らは、ちょっと自分の「習慣」を見直してみると、突破口が開けるかもしれませんね。自分が本当は嫌だと思っていることを、習慣でやってしまっていませんか?
d(^~゜ )


自分のモトあつめと他者への愛

ここで、愛の話に戻ります。

自分を愛するということは、自分のためにモトを集めるということです。モトを集めると、好き嫌いゲージが「好き」寄りに傾きやすくなって、幸せを感じやすくなり、さらにモトを増やすことができるんでしたよね(0029)。

自分にとって本当は嫌なことを、だらだらと習慣で続けてるだけで1日が終わる、そんな人生では、モトなんて集まりません。それがどうしても必要なら、まぁ仕方ないのですが、せめてそこから離れている時は、積極的にモト集めをして、自分を幸せにしましょう。
(^~^ )

だって、他者を幸せにする=他者にモトを与えるためには、自分自身がモトを持ってないと無理だし(物理的に無理なんです、モトには「量」がありますから)、自分自身がどうやってモトを増やしているか知らないと、他者がモトを増やす手伝いも、できませんしね。
d(^~゜ )

だから結局、冒頭に書いた通り「自分を愛せない者は、他者を愛せない」のです。モトの量に関係しているからです。

さて今日はここまで。わしの話を信じないこと。約束だぜ?

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