5-3【「大いなる矛盾」の世界に生きる僕たち】
人生は「すでに『ある』」
では、早速「人生はなぜ辛いのか?」という問いと答えの本質について考えていきましょう。前にも書きましたが、人生が辛いのは
「人生なんてものが『ある』から」
です。そもそもこんなものがなければ、僕たちは毎日こんなに苦労しません。
かつてお釈迦様は『一切皆苦』(この世は苦しいことだけでできている)と語ったと言われています。確かに、この世界には苦しいことばかりあります。
ですが、楽しいこともありますよね? だから、世の中なんてべつに『一切皆苦』じゃないんじゃないの? とお思いになる方もいらっしゃるかもしれません。
ところが、『モト』の視点から見るとこれは大変的を射た言葉です。
『大いなる矛盾』の世界で
というのは、僕は「この世界」というのは『大いなる矛盾』
の上に成り立っていると考えているからです。その矛盾とは、どういうものかというと・・・。
まず、僕たちは全員「生き物」です。生き物には「死なないようにしなさい」というプログラムが組み込まれています。生存本能です。ですから、僕たちの全員が「死にたくない」と本能的に思いながら暮らしています。
そして、僕たちが生きていくためには、他の生き物を捕食するしか方法がありません。僕たちが普段食べているものを考えてみてください。すべて、そう、すべてが他の生き物のカラダでできています。
菜食主義者の方々でもそうです。あれは植物の死骸か種です。植物だって当然生き物なので、死にたくないと思って生きています(植物にもココロがあるんでしたね(第一章参照))。それを食べているわけです。
ほら、もうこの段階でおかしいんですよ(笑)。僕たちは毎日当たり前に食事をしますが、この「食事」は、世界がはらむ『大いなる矛盾』の上で成り立っているんです。つまり
・すべての生き物は『死にたくない』
・他の生き物の『死』を通してしか、生き物は生きられない
ね? 僕たちは、他の「死にたくない」生き物を「ぶち殺して」食べないと、死んでしまう仕組みになっているんです。
これを『大いなる矛盾』と言わずして、何を矛盾と言いましょうか・・・
この『大いなる矛盾』は、システム的なものです。僕たちの「人生という『現象』」に組み込まれている仕組みなんです。
どうしてこんな仕組みになっているのか・・・
どうして人生というのが「だれかの『イヤな思い』」を前提にしたシステムになっているのか・・・
実はね、ここに「人生とは何か?」という問いの「鍵」が眠っているんです。
人生の苦しみは「システム上の必然」である
僕たちはこの『大いなる矛盾』の上でしか生きられません。人生というものは、こういうシステムにのっとって運営されています。では、どうしてこんな仕組みになっているのでしょうか? どうして、人生というのは「誰かの苦しみ」の上で成り立つシステムなんでしょうか?
そこで、『モト』の登場です。
第二章で初めてモトについて書いたときに、僕たちのこの世界がどういう仕組みになっているのか、少しだけ書いたことを覚えていますか? その時書いたことはこうでした。
『僕たちが生きているこの三次元空間というものは・・・実は「電光掲示板」のような構造をしているのです。』
モトを通して世界を見ると、僕たちの世界はあくまで「表示されている」にすぎないのです。さながら、オンラインゲームのようなものでしょうかね。プレイヤーがどこか上の世界にいて、僕たちの「人生」を、ルールにのっとってプレイしている、というのが、見立てとして近いと僕は感じています。
『大いなる矛盾』の世界に「やってくる」理由がある
「上の世界???」
とお思いになったのではないかと思います。そりゃそうです。僕たちはこの『上の世界』とも言うべきところを、知覚できない仕組みになっていますからね。
この世界が「モトで表示された世界」であることから考えると、この『上の世界』は『大いなる矛盾』のない、もっと別の仕組みで運営されていると考えられます。なぜなら「上の世界」には、わざわざ「『大いなる矛盾』のあるこの世界」を作って、そこに住むようにする
理由
があると考えられるからです。そう、事情と理由があるから、僕たちはこんな苦しみばかりの『矛盾した世界』に、なぜ生きるのか何も分からない状態で放り込まれているのです。
『大いなる矛盾』の世界に「やってくる」のは誰か
僕たちが「この世界」で生活するのは、逆説的ですが、この世界で「生きている間」だけです。この「生きている間」が「存在すること」そのものに何らかの「意味がある」と仮定するならば、僕たちがこの世界に登場すること、そして退場すること、それらの「前後」にも何らかの事情が存在することになります。
もうちょっと砕けた言い方をすると、僕たちが生まれて、生きて、死ぬ、そのプロセスを「必要としている者」がいる、ということです。
それは誰かというと・・・もちろん「今生きている人」、つまり・・・あなたです。もちろん、僕もです。今を生きている全員に、生まれてくる理由と、生きる理由と、死ぬ理由があります。そうしないといけなかった、何らかの事情があるということです(これはもちろん『個別のドラマ』の話ではありませんよ)。
もちろん、そういった「事情」は僕たちには「分からない仕組み」になっています。先ほど書いたように、僕たちには矛盾だらけの世界で生きている理由が「分からない仕組み」になっているんですね。
前述のとおり、この世界が「必要に応じて作られた」ものであるとするならば、こういう風に「分からない仕組み」になっている理由も、当然ながらちゃんとあると考えられます。
輪廻転生を繰り返す僕たち
要するに、です。
僕たちは現在、謎の世界に「モトで表示されている」わけですが、それはつまりもともとは「モトで表示されていない別の世界」から来ているということを意味しています。
これが恐らく、俗に「死後の世界」だとか「あの世」だとかいわれる世界だと考えると、矛盾がありません。
この世に生まれてくる理由があるんだから、用が終わると帰っていくわけです。この世からあの世に帰る現象を、僕たちは「死」と呼んでいます。
そして、何らかの用があって再び「生まれてくる」わけですので、生まれてくる「前」にいた世界というのも、この「死後の世界」と同じ場所だと考えられます。
これらを総合すると、僕たちはなんだか「上の世界」ともいうべきところから「生まれて」きて、生きて、そして「死んで」そちらへ帰っていく、そしてまた用事ができたら再び「生まれてくる」ということをくり返していることになります。オカルトで輪廻転生とかリ・インカーネーションとか言われている現象です。
生まれる前、生まれた後、二つの世界の「名前」
この世界が「モトで表示されているに過ぎない世界」だと仮定すると、芋づる式にこういったことが分かってきます。すなわち、人が死んでから再び生まれるまでの世界と、生まれてから死ぬまでの世界、僕たちは本当はこういう「二つの世界」を行き来して生活しているということが考えられます。
これら「二つの世界」をそれぞれどう呼ぼうか・・・僕はずいぶん思案しましたが、今はこう呼んでいます。今後、この本でも次の呼称を採用します。
この世は「地獄」です。
あの世は「天国」です。
僕たちが知覚・想像できる範囲でいうと、世界はこの二つだと考えていいと思います。三つでも四つでも一つでもありません。二つです。
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